小さな編集長の雑感(限定版)

小さなメディアの編集長が、仕事や働き方の気づきを書き留めるブログ。限定版。

「愚問」は、周りに気づきを与える「最高の質問」という話

「なんて馬鹿な質問をしているんだ、あいつ」

イベントの質問タイム。馬鹿な質問をすると観衆の冷たい視線を浴びると思い、どうしても積極的に挙手して質問をする空気ができない。日本のイベントでよくある風景ではないでしょうか。

今日は、みんなが馬鹿だと思う「愚問」について考えてみます。

まず、なぜ日本のイベントでは、積極的に質問が出てこないのか。実はこんな背景があると言われています。それが、文化的価値観の違いです。

よく知られるのは、ヘルート・ホフステードがIBMで行った国別の文化的価値観の違いを調査・分析、数値化したものです。その特徴を表したのが「集団主義個人主義」の違いで、集団主義的の性格は「集団に忠誠を尽くす代わりに保護され続ける」と考えるため「私たちは」という視点で物事を考える傾向が強くなるといわれています。そのため、イベントでは「みんなの役に立つ質問をする」という意識が顔を出し、「私たちは」という主語で質問を考えるため、大規模になればなるほど質問が出にくくなるというメカニズムが発生します。ちなみに、日本人は集団主義です。

では、そうした場を壊すことはできないのか。
その解のひとつが「愚問」ではないかと思うんです。

「こんなこと、聞いちゃっていいのかな?」
「どうしても、このことだけは聞いてみたい」

そんな質問は、他人からすると自分とはまったく関係ない「愚問」に映るかもしれません。しかし、この愚問が前述の集団主義の価値観を壊す力を生むのではないでしょうか。

ここで事例を紹介します。

それは、日本人初のノーベル賞学者の湯川秀樹さんです。実は湯川さん、京都大教授の定年間際にも学内に積極的に顔を出し、とんちんかんな愚問を連発していたそうです。当然、研究者に撃退されていたそうですが「俺、あほや、、、、」と落ち込むものの、時折、まったく切り口の違う視点を与えて、議論を活性化していたそうです。きっと湯川さんもそうですし、その場にいた研究者の学びも湯川さんのとんでも質問によって深まっていたのではないでしょうか。結果、このあともノーベル賞受賞者が続くという結果につながっています。

(参考)
京都新聞 凡語 - 素直な愚問


愚問は、「あいつは馬鹿だ」と思われる代わりに場の空気を変えます。そして、ときに驚きの発見を生みだします。

「愚問」は、ときにみんなの知りたいを共有する質問になる
「愚問」は、ときに質問の敷居を下げて、議論を活性化する
「愚問」は、ときに驚きの発見を生み出す

なんかこう考えると、
純粋に知りたいという個人的な「愚問」の力ってすごい気がします。

そして最後に。

こうした愚問っていちばん、「権力者」ほどすればいいと思うんです。湯川秀樹さんが愚問を連発していれば、学生も研究者も「俺もこんな質問していいんだ」と積極的に質問する空気を生んだのではないでしょうか。きっと日本特有の集団主義の空気を打ち壊し、議論の活性化、はたまた新しい気づきを得ることができるのではないでしょうか。

「愚問」は、最高の学びを与える「最高の質問」なのかもしれません。